高麗人参の歴史
高麗人参は「漢方の王様」とも呼ばれ、高い健康効果をもつことで知られています。高麗人参は、古くから貴重な薬草として珍重されてきました。古代より人の生活に関わってきた高麗人参の歴史について解説します。
原産地は朝鮮半島や中国東北部
高麗人参はウコギ科の多年草で、中国の遼東半島から朝鮮半島にかけての地域が原産地といわれています。中国東北部から朝鮮半島、極東ロシアの沿海州にかけての山岳地帯に広く分布し、古くから高い効果を持つ薬草として採取されてきました。
世界における高麗人参の歴史
高麗人参には、東アジアを中心として、世界中で利用されてきた歴史があります。
古代中国で薬として利用
高麗人参は、古代中国で貴重な薬草として利用されていました。紀元前3世紀に初めての中国統一王朝の皇帝となった秦の始皇帝が、不老不死の霊薬を探し求めて、高麗人参を飲用したと伝えられています。
書籍における高麗人参についての記述は、紀元前1世紀頃の作と伝えられる中国の『急就篇』が最古のものです。この書物の中で、人参の「参」の文字が初めて用いられています。
約2000年前に記された中国最古の薬物書である『神農本草経』にも、高麗人参についての記述があります。この書物には365種類の植物・動物・鉱物が薬として収録され、薬効によって「上薬・中薬・下薬」の3つに分類されています。このうち高麗人参は最高ランクの「上薬」に位置づけられ、内臓機能を補う効果や、精神を安定させる効果、寿命を延ばす効果があるとされています。
張仲景によって3世紀頃の後漢末期から三国時代に編纂された医学書である『傷寒論』には、高麗人参を用いた処方が記されています。この書物には現在知られている高麗人参の薬効の多くが記されており、この時代には既に高麗人参が長く薬として用いられ、臨床的な知識が蓄積されていたことが伺えます。
朝鮮半島でも薬や輸出品として珍重された
中国と同じく、高麗人参の原産地である朝鮮半島でも、古くから高麗人参が薬草として利用されてきました。
朝鮮半島の古代国家である高句麗では、高麗人参が薬草として王侯貴族に利用されていたとの記録があります。また、698年に建国され、満州や朝鮮半島北部を支配した渤海国から、日本の聖武天皇に対して高麗人参が贈られたという記録も残っています。
1392年に建国された李氏朝鮮時代には、朝鮮半島でいくつかの医学書が記されました。
こうした医学書には1433年の『郷薬集成方』、1613年の『東医宝鑑』、李朝後期に記された朝鮮医学の処方集『方薬合編』があり、これらの書物に記された処方例の多くに高麗人参が使用されています。李氏朝鮮時代でも、高麗人参は貴重な薬草として利用されていました。
また、紀元前に建国された高句麗から渤海国や李氏朝鮮に至るまで、朝鮮半島の歴代国家は、高麗人参を中国や日本など東アジア諸国との貿易や外交に利用してきました。
18世紀初頭の江戸時代には、朝鮮半島から日本に輸出された高麗人参に対して、日本から年間5トン以上の銀貨が支払われています。高麗人参は朝鮮半島の国家にとって貴重な輸出品であり、大きな財源でした。
大航海時代には欧州に伝来
15世紀半ば以降の大航海時代には、アジアだけでなくヨーロッパにも高麗人参が伝わりました。中国を訪れたフランスの航海士たちが高麗人参を持ち帰り、欧州に広まったといわれています。
高麗人参はヨーロッパでも人気が高まり、フランスの著名な哲学者ジャン=ジャック・ルソーや、ロシアの作家ゴーリキーが高麗人参を愛用していたことが知られています。
日本における高麗人参の歴史
日本にも高麗人参が伝来し、古くから貴重な薬草として利用されてきました。
日本には奈良時代に伝来
日本に高麗人参が伝来した最古の記録は奈良時代のものです。天平11年(西暦739年)に、現在の中国東北部や朝鮮半島北部を支配していた渤海国からの使いが、聖武天皇に高麗人参30斤を奉呈したという記録があります。
日本で同時期に建設され、現在に当時の宝物を伝える正倉院には、当時の高麗人参が現在も保存されています。
豊臣秀吉が種を入手
1592年に朝鮮に出兵した豊臣秀吉は、高麗人参の種を日本に持ち帰ります。
秀吉の軍師であった黒田官兵衛は、隠居した後、この種を使って高麗人参の栽培方法の研究を行いました。秀吉の家臣であった蒲生氏郷も、気候が朝鮮半島と似ている会津の地に高麗人参の種を蒔き、栽培を試みています。しかし、高麗人参の栽培はとても難しく、このどちらの試みも失敗に終わっています。
徳川家康も愛用
江戸幕府初代将軍の徳川家康は、高麗人参を愛用していました。家康は健康志向が強かったことで知られ、当時としては長寿の75歳まで生きています。
江戸幕府の第3代将軍である徳川家光は、高麗人参の発芽が難しいことから、苗の入手を命じます。当時の李氏朝鮮は国によって高麗人参の生産を管理しており、苗の輸出は禁じられていました。家光の命令によって、当時の幕府は困難のなか数本の苗を入手しましたが、栽培は失敗に終わりました。
江戸を中心に高麗人参が大人気に
高麗人参は栽培が困難で輸入に頼っていたこともあり、江戸時代には非常に高価な生薬でした。庶民には縁の無い高嶺の花でしたが、17世紀末頃から江戸市中を中心に、万病に効く薬として高麗人参の人気が大きく高まります。
当時の江戸では、人参を買うために娘を売る親や、盗みを働く人も現れました。分不相応な薬を購入することを戒めた「人参飲んで首括る」といったことわざや、医薬の限りを尽くして治療する「人参で行水」といった言葉がこの時代に生まれています。
高麗人参は専ら朝鮮からの輸入に頼っており、対価として銀が国外に大量に流出していました。「人参代往古銀(にんじんだいおうこぎん)」と呼ばれる高麗人参の貿易取引専用の銀貨が1710年から鋳造され、これは日本国内では利用されない高純度の銀貨でした。
徳川吉宗の時代に栽培成功
高麗人参の輸入は銀の国外流出を招き、これを重くみた第8代将軍徳川吉宗は、高麗人参の栽培法の本格的な研究に取り組みます。
吉宗は対馬藩に命じて、当時朝鮮半島で持ち出しが禁じられていた種と苗を入手させます。この苗と種を使って江戸の小石川薬園などで研究が行われ、1729年に日光御薬園で高麗人参の国内栽培が初めて成功しました。
国内で栽培した種子は全国の藩に分けられ、幕府によって高麗人参の栽培が推奨されました。1736年には一般の希望者にも種子を配布する布告が出され、江戸で種子の販売が行われました。
幕府によって栽培が推奨されたことにより、「オタネニンジン(御種人参)」という呼び名がこの時に生まれ、現在も高麗人参の別名として使用されています。
18世紀中ごろから後半には、日本各地で高麗人参が栽培されるようになり、朝鮮からの輸入量が激減します。これにより、高麗人参を輸入するための特別な銀貨の鋳造が行われなくなりました。
当時の日本の生産地としては、特に会津藩(現在の福島県)や松江藩(島根県)が有名です。会津では専用の人参役場を設立するほど藩の財政に貢献し、中国への輸出も行われました。松江藩でも良質な高麗人参栽培に成功し、なかでも八束町は有数の生産地として有名になりました。
明治時代には生産が縮小
明治時代に入ると、西洋医学が日本に本格的に広まり、高麗人参の需要が減少しました。これにより日光地方の高麗人参栽培が衰退するなど、日本国内の高麗人参の生産が縮小します。
高麗人参の栽培技術は、福島県会津地方や島根県大根島、幕府の天領だった長野県の東信地方に引き継がれました。これらの地域では、現在でも高麗人参の栽培が行われています。
現在の産地
現在、高麗人参は全体の70%以上が、古くから採取や利用が行われてきた韓国と中国で生産されています。
韓国の産地としては、中西部の忠清南道錦山郡と北西部の仁川広域市江華郡が有名です。
中国では、北朝鮮との国境付近にある白頭山周辺での栽培が盛んです。
北朝鮮でも栽培が盛んに行われており、韓国との国境にある開城市が産地として知られています。
日本の産地としては、江戸時代から栽培が続く福島県会津地方や、島根県松江市大根島、長野県の東信地方が有名です。経済成長後の円高の影響などから、現在国内で消費されている高麗人参は、中国産や韓国産の輸入品が多くを占めています。
健康志向の高まりや、東洋医学が見直されてきたことから、近年日本では高麗人参の人気が再び高まっています。漢方薬としての従来の利用法とともに、高麗人参を使用したサプリメントや、美容液などの美容用品が数多く販売されています。
まとめ
高麗人参と人との関わりは非常に長く、紀元前の中国の書物にも記述があります。原産地である中国や朝鮮半島では古くから貴重な薬として珍重され、特に朝鮮の王朝にとっては重要な輸出品でした。
日本にも奈良時代に高麗人参が伝来し、江戸時代には国内での栽培に成功しました。明治時代以降、日本での栽培は縮小しましたが、いくつかの地域では現在も栽培が行われています。古代から貴重な薬草として利用され、約1300年前に日本に伝来した高麗人参は、現在も日本人の健康に役立っています。